地域ブランドの検証:


田園調布

実体とは離れた"尾ひれ"のイメージが付くという意味においても、田園調布はまさに住宅街のパワーブランドである。

現在も、高額である。土地価格が坪当たり300万円近い水準なので、100坪の物件があったとして建物を合わせると3億円を超えることになる。大手企業の社長といえども、サラリーマンである限りすぐには手の届かない高みである。ただし、高級だから良質なのではない。田園調布を愛する住民が願う良質とは、緑豊かな景観である。公園的な住宅街に住まうことに誇りを持ち、こだわってきたからこそ、ブランドを保つことができたのである。

そもそもその特徴は、田園という2文字がブランドネームになるきっかけとなった、宅地開発の理念に由来している。大正7年、かの渋沢栄一等によって革新的なデベロッパーとして「田園都市株式会社」は設立された。田園都市とは、当時都市計画思想として欧米で注目されていた“ガーデンシティ”を意訳したものとされるが、その理念は緑豊かで公園的な都市の建設であった。明治の富国策の結果、近代化はなされたものの無秩序とも言える発展を遂げた東京市街地は、渋沢には劣悪な住環境に見え、理想をもって郊外のこの地に住宅地を建設したのである。

それは今の田園調布二、三丁目を中心とする丘陵地帯で、当時は調布村という地名だった。全くの郊外で武蔵野そのもの、同じく田園都市社が分譲した洗足や日吉の宅地となんら変わりのない価格帯であったという。大正12年に分譲開始された数年間は、偶然関東大震災があった年でもあり、住宅建設がなかなか始まらなく雑草の空き地も多く、ましてや商店など全くない不便なところであったという。それでも現在のように他に増して成熟されていったのは、やはり、田園都市建設という理念がこの地に投影されたからであろう。
これはまさに、ブランド・モデル要素の1「送り手の夢」であり、革新性・独自性で高い評価を与えることができる。

それでは、この夢が今日に至るまでどのように共有されてきたのであろうか?

「田園調布会」という社団法人がある。これはすなわち、町内会であるが、この歴史が大正15年まで遡る。その1年前から始められた住民協議会が自治組織として調布村から認められ、また駅名が田園調布と改められたのを機に、正式発足した。そしてその後、宅地開発の目的会社であった田園都市社が役割を終えて吸収合併されるときに、一部の資産が田園調布会に寄贈され、その管理のため法人化された。昭和3年のことである。3/4世紀も前から自らの手で夜警やインフラ整備を行ってきた同会は、現在も、集会場を持つ立派な町内会館を保有し専務の事務員を雇っている。昭和57年には「田園調布憲章」を制定し、街並みの維持と住民の調和を高らかにうたいあげている。主な活動は「総務」「環境」「文化」「保安防災」「広報」の5つの委員会が担っている。文化委員会では、毎年新入会員歓迎会を行い、新住民に田園調布のDNAを注入している。広報委員会では、季刊「いちょう」を発行し、またハードカバーの立派な郷土誌を編纂している。

そしていま最も活発を余儀なくされているのが、環境委員会だ。冬にもかかわらず潤いのある街並みを歩くと、静かな反面、各所で槌音が聞こえる。約1700世帯あるうちの、毎年100軒近くが改築や転入出に伴う新築をしているようだ。それらすべての建築計画を、憲章や別途定めた地区計画に基づいて審査を行っているのが、環境委員会だ。平均すれば毎週毎週2軒ずつ書類を見て近隣へ告知して、問題が出れば協議や抗議をするといった、まるでフルタイムの役人のような働きぶりである。建築への約束事を定めた地区計画を施主のすべてが守ってくれればそれほどでもないが、景観にそぐわなくても我を通そうとする輩が後を絶たないためにここ数年繁忙が続いているようだ。

当然、無償のボランティアである。なぜそこまでできるのか? いうまでもなく、わがまちへの誇り、愛着、住環境を守るというアスピレーション(用語はこちら参照)、これらが委員を突き動かしている。

地域ブランド・モデルの第1要素「送り手」の存在は実に明解で、堅固だ。当事者意識が高く、実践が伴っている。

他の要素も含め、「田園調布」のブランド・モデルは実に完成度が高く、パワーブランドに位置する条件を備えている。


住環境維持の手法

各地域が独自の住環境を守って行くには、どのような手法があるのだろうか?

従来的には、建築協定と地区計画が主に考えられてきた。都市計画法や建築基準法の規制に上乗せして、敷地面積の最低限度や建築物の位置、用途などを紳士協定として定められるのが建築協定。地区計画は、同様の内容ながら公共の道路や公園まで言及でき、条例にまで強制力を高めることができる。

例えば最低面積を大きく決めると、建ぺい率や容積率の基準から、自ずと庭の大きい住宅がゆったりと建ち並び、緑豊かな景観が形成される。それを狭小な面積でも良しとすると、建ぺい率なども弛めなければまともな家は建たなくなり、結果境界線までギリギリ建つ緑少ない密集地となってしまう。

しかしいかにもマニュアル的で、実効力に疑問も多い。例えば、植栽や樹木の伐採まで規制は難しいし、住宅のデザインを統一するなど無理だ。こうした意見をふまえて国では「景観形成促進法」を制定する動きもある。地域が望めば、今まで難しかったデザイン統一や樹木伐採規制を可能にする法案のようだ。マニュアル的であるのは否めないが、期待は大きい(この後、04年12月に景観法が施行され、05年6月からは「景観地区」指定もできるようになった)。

実は田園調布会は、この地区計画で反省を余儀なくされている。1982年建築協定に当たる「環境保全についての申し合わせ」を決議したのに続き、91年8月には地区計画を定めた(適応は町会範囲より狭い)。この年月が示すように、バブルの最中に計画されたものであり、住民の当時一番の関心事は相続税であった。税捻出のための、50坪の分割なら認めようと、最低面積を地区計画に明記した。しかも成り行き上、建ぺい率容積率を従来の30/50から40/80に緩和した。

この結果50坪でも田園調布に家が建つということになり、この10年細分化が進行した。

反省もあって環境委員会は積極的に活動しているし、会員の結束も強まったように感じられる。そして積極的に情報発信し、コミュニケーションを計ろうという動きになりつつある。そのために、ホームページも立ち上げた。理解をしてもらい、共感してもらった人に新住民となってもらい、新たな送り手となってもらおうという考えだ。

マニュアルで規制するのは最後の担保として、事前に対話によってファンになってもらうという手法は、ブランド・コミュニケーション的であり住環境維持の新たな一手となるに違いない。


「田園調布」のブランド・モデル(用語はこちら参照)

[ブランドネーム]田園調布
1)送り手 社団法人 田園調布会
2)夢・理念 渋沢翁の意思を受け継ぎ、緑多き公園的住宅街を形成する
3)"まち"の強み 景観に似つかわしい、品格・教養を認め合う住民文化
4)"まち"の領域 田園調布会の管轄する範囲の、大区画住宅街
5)シンボル 旧駅舎と、放射線状の銀杏並木
6)受け手 夢を共有できる転入希望者および、既住民
7)共同送り手 大田区、隣接町内会、施工業者不動産業者
8)約束 誇りある生活

この言い方をすると田園調布の方々には怒られるが“高級住宅街”は、まさに地域ブランドそのものであろう。送り手である住民は決して高級などとは思っていない。地価が勝手に高騰しただけで、旧来住民は至って質素な生活を営んでいるという。“高級”とは、外からのイメージにすぎないのである。受け手が勝手に、イメージを膨らませ虚像を見ているのである。

しかし、ブランド・モデル手法はその“高級”の本質を描き出すことができる。住宅街にまで、ブランド・マネジメントを援用できることが検証された。ブランド・モデルを描くことで、送り手自らも、“まち”への誇りは何に由来し、今後何を次代に伝えていかなければならないのか、再認識することができる。そして、共通の言葉、概念で、送り手構成員間の共有が可能となるのである。


※「日経地域情報」(040202号)掲載記事をもとに修正加筆
※さらに手法を学ぶ→「地域ブランド戦略ハンドブック


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