地域ブランドの検証:

ビジネスセンター東京の顔:「丸の内」の新生

丸の内の歴史は、明治23年まで遡らなければならない。三菱財閥が軍の所有地払い下げを受けたことから始まった。その後、大正3年の東京駅開業を前後して、徐々にオフィス街としての格式を整えていった。中でも、大正12年の「丸の内ビル」通称“丸ビル”の完成をもって、近代的な巨大ビルヂングの林立する、オフィス街「丸の内」は確立されたと言えそうだ。日本のオフィス街の代表として君臨することになる。企業が“一流企業”の仲間に入れるかどうかは、丸の内に本社を構えられるかどうか、と同義になったわけである。

そして昭和27年、新丸ビルの完成と前後して、高さが31mに統一された第2次丸の内が完成されていく。その丸の内もいつしか「重厚長大」と揶揄されるようになり、夜間人口との極端な差が街としての存立を危ぶみ、新しい副都心、新宿・渋谷・池袋、さらには横浜・千葉を含む湾岸地区との“本社争奪競争”に巻き込まれていった。“まち”としての絶対的な競争優位を 失いつつあったのである。その丸の内が今、姿を大きく変えようとしている。

その手法は、画期的な事業だったと将来から評価を受けることになろう、“まち”のブランド・マネジメントによるものである。


初事例「丸の内」ブランド戦略とは

その歴史からいっても、3割という圧倒的な占有割合からいっても、丸の内の大地主として自他ともに認める三菱地所が、新生丸の内のまちブランド戦略の仕掛け人である。自らの旗艦であり、“まち”のシンボルでもあった“丸ビル”の建て替えを契機に、画期的かつ大胆なブランド戦略を展開しつつある。

その特筆すべき戦略の第一は、組織である。三菱地所には現在、「街ブランド室」というセクションが作られている。企業活動においてさえ、多くがブランド・マネジメントの重要さに気づいていない状況にあって[当時]、自社を飛び越して、“まち”のブランドを管理運用する担当部署を作ってしまったのである。

対外的には丸の内のまちづくり主体は、「地区再開発計画推進協議会」と「まちづくり懇談会」だろう。前者は地権者で組織された任意の組織であり、後者は都と区が参画する、いわば企画部隊だ。しかしこれらを活性化させ、いい意味で引っかき回しぐいぐいと先導しているのは、三菱地所に他ならない。

ともすると官や協議会では公平を重んじるあまり、“まち”づくりにとって必要な選択と集中を阻害してしまうことがあるが、それを乗り越えて動くための組織をつくったことは称賛に値する。“まち”のブランドは自然にできあがるものではなく、マネジメントする手法があり、そのために投資をしなければいけないという意識は、全くといっていいほど理解されていない。それを敷衍させていく上でも、街ブランド室の役割は大きいだろう。

第2に特筆すべきは、建て替えなった丸ビルの事業方針である。

ブランド・マーケティングには、シンボル事業開発という手法がある。広告や広報はブランドの知名度を高めたり、雰囲気を伝えるのに効果的だが、送り手の強い思いを伝えたり、ブランドの約束に信憑性を与えるのは苦手だ。これらが認識されて初めてブランド・ロイヤルティが醸成されるわけだが、そのためにはブランドの価値を実感してもらえる事業を通して行うのが効果的だ。ブランドを具現化できるシンボリックな事業を、コミュニケーションという役割に特化させて開発するものだ。ただし売上増とかシェアの確保といった従来の企業論理を捨てなければならない。ブランドのための投資となる。

新生丸ビルは、丸の内ブランドにとって、まさにシンボル事業である。売上や利益を度外視した設計思想や運営企画が盛り込まれている。1階の「Marucube」と呼ぶ6層吹き抜けのアトリウムや7,8階の会議室フロアなども、収益にとっては非効率であるが、“新生丸の内らしさ”のために敢えて作った。ショッピングゾーンやレストランゾーンも従来の丸の内イメージを打ち破るもので、休日でも人を呼べる質と量を実現している。さらには、新たなビジネスを生む装置としての交流組織や大学とのリエゾン事業などが、ハードソフト両面でこのビルには埋め込まれている。丸ビルの存在と、丸ビルの中で来街者が経験する事すべてが、ブランド・コミュニケーションとなるはずだ。

第3には、十全なフィールド調査のもと、ブランド・モデルをほぼ確立させている点だ。街ブランド室の田中氏にヒアリングを求めると、本稿で設定しているブランド・モデルの7要素をほぼよどみなく的確に答えていただいた。的確に答えるためには、送り手受け手を問わず調査したプライマリデータから各要素を抽出、ブラッシュアップしなければならない。これは苦しい作業のはずだ。企業でさえ満足にできないところが多いのに、地域のためにやり遂げたのは驚きである。

極めて完成度の高いそのブランド・モデル(用語はこちら参照)を確認してみよう。


[ブランドネーム]丸の内
1)送り手 三菱地所株式会社(対外的には、地区再開発計画推進協議会とまちづくり懇談会
2)夢・理念 常に開拓し、新しいことに挑戦するまち
3)"まち"の強み 企業および人材の集積度
4)"まち"の領域 大手町・丸の内・有楽町を範囲とする、ビジネスセンター
5)シンボル 丸ビル
6)受け手 時代をリードする、企業およびビジネスパーソン
7)共同送り手 地主の意思決定機関である同協議会、同懇談会
8)約束 交流、および交流によって生み出される新たなビジネスへの期待感


「新生丸の内」ブランド・モデル


送り手主体は、三菱地所で自他一致だろう。

その夢は「パイオニア精神」という答えが返ってきた。丸の内を常に開拓し、新しいことに挑戦する心意気だと解してよいだろう。

つぎに、調査の結果送り手として再認識した「丸の内の強み」とは、企業と人材の集積度だったという。日本は当然のこと、世界的に見ても希な集積の高さが丸の内の特徴なのだ。それは、入居事業所のうち大企業の割合や本社をおいている割合が圧倒的だったり、業種の多様さだったり、人材の質の高さといった特徴を含んでいた。そしてこの強みは、面授というメリットを生み出していく。ITを活用してバーチャル・コミュニケーションが重要度を増していくが、最後のところは人と人が顔をつき合わせることなくして事は生まれないというのが、三菱地所の信念だ。集積は、事を生む。

さらに、田中氏は言及しなかったが、丸の対の強さには“最先端”が加わるだろう。丸ビル以後も、丸の内では日本工業倶楽部会館をはじめ次々とオフィスビルが更新される。もちろんすべてが、時代をリードする要件を満たしたビルに生まれ変わるであろう。歴史に加え、新たに最先端という優位性を身にまとうことになるのである。

まちの領域としては、大手町から丸の内をはさんで有楽町までを地理的範囲としている。ここを対象としてビジネスセンターとしての丸の内ブランドを確立しようとしている。

シンボルは、言うまでもない。歴史や精神的な面においても、また東京駅前立地という実利的な面でも、丸ビルのシンボル性は高い。

そして肝心の戦略ターゲットは、時代をリードする企業、時代をリードするビジネスパーソンとしている。

このブランド・モデルを通して、丸の内は何を受け手に約束しようというのだろうか。これも極めて明快な答えが返ってきた。交流=インターラクションである。新たなビジネスの芽は、交流なくしては生まれない。交流を約束できると言うことは、丸の内へ行けば何か新しいビジネスを起こせるかも知れないという“期待感”を約束するということである。オフィス街として、これほど大きな約束はないだろう。
丸の内は、20世紀の落とし子であった。その終わりとともに陰りを見せたものの、21世紀の訪れとともに見事に進化を遂げようとしている。

従来の建築都市計画主導の手法でビルを立て替えただけでも、丸の内はある一定の優位性を保ったオフィス街として生きて行けただろう。しかしここで、“まち”もブランドである事を強く認識し、自らブランド・モデルを確立したことで、永続的な競争優位を勝ち取るだろうとの推測は難くない。その時には『企業ならば一度は、本社を構えてみたい』と思わせ、あるいは『丸の内で働いてみたい』と誰もが思う“まち”になっていることだろう。それはすなわち、外からの憧れであり、外のイメージで“まち”の評価が支えられている証左である。夢が叶い、丸の内に本社を構えた企業の商品や業績、あるいは丸の内を忙しく駆け抜けるビジネスパーソンの姿を見て、もうひとつの夢が外で再生産されていくのである。“まち”はこのようにして、受け手によって創られていく。


※「日経地域情報」(021104号)掲載記事をもとに修正加筆


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